市のあゆみ(市制施行まで)

ページ番号 1000064  更新日  平成26年9月14日


  奈良時代の天平13年(741年)、現在の府中市にあった国府から、北方約2.5キロメートル、武蔵野台地を背にした平原部(現在の西元町)に東西約0.9キロメートル、南北約0.6キロメートルにわたって国分寺の建立が開始されました。完成した武蔵国分寺は、諸国の国分寺の中でも広大な敷地を有し、僧寺金堂は最大級の規模を誇りました。

 多摩地方は、国府設置、国分寺建立によって武蔵国の政治・文教の中心として 、経済・交通・文化・産業等あらゆる面で発達し、画期的な繁栄時代を迎えることになりました。また鎌倉時代には鎌倉街道も設けられ、恋ヶ窪地域は宿場町として栄えたと伝えられています。

 しかし、偉容を誇った武蔵国分寺も元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉に攻め上る途中に起きた戦いに巻き込まれ焼失し 、それとともに国分寺・恋ヶ窪地域はしだいに農村集落へ変わっていきました。

 江戸時代の享保年間(1716年から1735年) 、それまで原野であった武蔵野に、新田開発が行われました。内藤新田、野中新田など新田名が付く 字名の地域は、すべてこの時代に開発されたものです。

 明治維新により、慶応4年(1868年)国分寺村 、恋ヶ窪村、内藤新田、戸倉新田、本多新田の5村は品川県に、榎戸新田、野中新田六左衛門組、平兵衛新田、中藤新田、上谷保新田の5村は韮山県に属しました。

 明治22年(1889年)、市制・町村制施行で10村 が合併し国分寺村が誕生しました。また、甲武鉄道(現在の中央線)が同年に新宿・立川間が開通し、国分寺駅が現在地に開設されると本町・本多地域はしだいに開発されていきました。

 明治26年(1893年)、国分寺村は 、東京府に編入され、翌27年、国分寺・東村山間に川越鉄道(現在の西武国分寺線)が開通し、さらに府中へ馬車便が通うようになりました。こうした交通機関の発達や関東大震災後には東京市民の郊外への進出などにより、人口も次第に増えていきました。

 昭和になると周辺地域に工場や研究所などが進出し、それらへの通勤者の住宅が増えました。

 昭和15年(1940年)、町制が施行され国分寺町となり 、昭和18年(1943年)、東京府は東京都に改称しました。戦後は、海外からの引揚者などで人口が急増し、昭和39年(1964年)市制施行によって国分寺市となり 、現在に至っています。

 


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