ページ番号 1002881 更新日 令和6年2月7日
寺、寺跡、銅像、碑、塔、史跡などで国や市の重要文化財などに指定されているものもあります。
天平13年(741)、聖武天皇は鎮護国家を祈念して、諸国に国分寺〔僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺) 〕を建立するように命じました。武蔵国では国府(現府中市)に近く、都へ通じる東山道武蔵路沿いの広大な平地と東西に連なる国分寺崖線の麓、豊かな湧水をもつ現在の西元町一帯が好所として選ばれました。
国府とともに政治・文化の中心として栄えましたが、鎌倉時代末に「分倍河原の戦い」で焼失しました。武蔵国分寺跡と関連する遺跡は、東西1.5キロメートル、南北1キロメートルにおよび、諸国の国分寺跡と比べ規模が大きく、歴史的にも重要なことから大正11年に国史跡に指定されました。
「金字金光明最勝王経」を安置した当時の重要な施設です。
尼寺は東山道武蔵路の西側に建立されました。現在は史跡の保全整備も終了しています。平成19年「日本の歴史公園100選」にも選定されました。公園には尼寺の主要伽藍の規模、基礎工事の様子を見学できるように、堀立柱堀の一部復元や、東門、中門の位置表示、尼坊の礎石復元、推定金堂跡の基壇復元、基壇版築のはぎ取り標本の観察施設などがあります。
東山道は、駅制に基いて7世紀後半から8世紀前半にかけて整備された都と地方の国府を結ぶ幹線道路(七道)の一つです。
東山道武蔵路は、武蔵国が東山道に属していた時代に、都から信濃国(現在の長野県)や上野国(現在の群馬県)を経由して東へ走る東山道本道から分岐し、武蔵国へ南下するための支路です。泉町二丁目一帯では約340メートルにわたる直線道路跡が発掘され、現在は側溝跡や道路幅をアスファルト上に平面表記しているほか、遺構再生展示もあり、その広大さに当時の姿を実感できます。
医王山最勝院国分寺は、真言宗豊山派の寺院です。「分倍河原の戦い」で焼失した武蔵国分寺は新田義貞の寄進により薬師堂が再建されました。江戸時代に入ると徳川幕府は、由緒ある寺社に領地を与えて保護しました。国分寺の薬師堂も三代将軍家光から慶安元年(1648)に9石8斗9升8合の寄進を受け、朱印状を下付けされました。以後、十四代家茂までの朱印状が残っており、享保18年(1733)には本堂も再建されています。現在の本堂は昭和62年に改築されたものです。
国分寺境内にあり、宝暦年間(1751年から1764年)に建造された八脚門です。使用している木材の一部は、新田義貞が再興した国分寺薬師堂の古材を使用していると伝えられ、「新編武蔵風土記稿」にもその説が紹介されています。
門の左右には、作者不明で享保3年(1718)に作られた阿(向かって右、口を開いている)吽(向かって左、口を閉じている)の仁王像が安置されています。
国分寺門前にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛の菩提寺として創建された寺)の楼門を明治28年に移築したものです。三間一戸の楼門で、2階には十六羅漢像(現在13体)を安置しています。
国分寺境内にあり、建武2年(1335)に新田義貞の寄進により、僧寺金堂跡付近に建立されたものが、宝暦6年(1755)ごろに現在の場所に建て替えられました。
堂内には重要文化財の木造薬師如来坐像が安置されています。また、江戸の書家、深見玄岱が東大寺の寺額を模して書いたといわれる「金光明四天王護国之寺」の寺額が掲げられています。薬師堂の裏には、四国八十八ヵ所巡り石仏群があり、札所の番号や詠歌などが刻まれています。
戦前は60年に1度でしたが、現在は毎年10月10日付近にご開帳をしています。
国分寺薬師堂境内にあり、四国八十八ヶ所を模した石仏です。
鎌倉時代に、のちの江戸時代に鎌倉上道と呼ばれる道が開かれました。この道は鎌倉道の「上道」と呼ばれ、上野(群馬県)、信濃(長野県)方面に向かう主要道路の一つでした。現在、約120メートルほどの国分寺崖線を切り通した歩道が、当時の雰囲気を感じさせてくれます。
野川に架かる橋がもみじ橋で、橋の欄干にもみじの模様を散りばめています。並木のある散歩道には、所々にベンチがあります。遊歩道の距離は短いですが、人気の遊歩道です。
国分寺村の元町用水と野川が合流するところに架かる橋です。橋の北側に不動明王碑が祭られていることから、名付けられました。碑の横には庚申塔があり、松の木をはさんで、石橋供養塔があります。
不動橋の北側の路側に、石橋供養塔と隣に庚申塔と不動明王碑があります。供養塔はかつて石橋だった不動橋を供養する意味で天保3年(1832)に建立(再建)されました。
明治22年(1889)に、新宿・立川間で開通した甲武鉄道(現在の中央線)が政府に買収され,その後大正11年(1922)に国分寺駅まで電化が進み、蒸気機関車から電車になったのを記念して、同年11月21日に建てられた碑です。
新田開発の苦労を偲んで、観音寺が中藤村から中藤新田に移転した時の住職阿闍梨法印亮瑞と、移転に尽力した幕府代官川崎平右衛門を供養するために住職と農民が寛政7年(1795)に建立した宝篋印塔です。
幕府の新田農民援助策を立案した川崎平右衛門と、継続した伊奈半左衛門に感謝して南北武蔵野新田80余の村々が、寛政11年(1799)に建てた宝篋印塔です。建立の経緯は内部から発見された市重要有形文化財の「武蔵野新田養料金一件始末書」に記載されていました。
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